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松下村塾は世界遺産!萩を旅行してみて知った塾生の顔ぶれにビックリ!

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山口県の萩を旅行してきました。

萩に行きたかった理由は萩焼のマグカップが欲しかったから。

昔、初めて萩焼を見たときに、萩焼の淡い色にものすごく惹かれたことがあるんです。

 

萩に行くからには世界遺産に登録された「松下村塾」にも行ってみたいと思いました。

 

山口県は昔の「長州」

明治維新の立役者といわれる方々が多数輩出されています。

そして、日本の歴代首相が名を連ねていますね。

 

今回山口県を旅行して、道路が立派なことに驚きました。

かなり田舎ですが、田舎の道にしては道幅が広く、歴代首相の力を感じました。

 

そんな長州藩にあった「松下村塾」とは?

歴史が苦手な私ですが、歴史好きな旦那さんについてまわりながら、歴史を勉強してみました。

 

松下村塾は世界遺産です!

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吉田松陰ゆかりの地を訪ねてみました。

まず、大きな看板が上がっている「松陰神社」を車で目指しました。

 

実は、下調べが不十分で「松下村塾」が「松陰神社」の境内にあることを知らなかったんです。

 

「あら、松下村塾がこんなところにある!」

みたいな流れです。

 

松陰神社でお参りしてから、松下村塾へ行くつもりでした(ちょっとマヌケ)

 

きれいに整備された松陰神社に、見学自由で「松下村塾」は立っていました。

 

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古い建物ですが、昔の家はこんなんだったなぁと、納得のいく佇まい(たたずまい)です。

松下村塾は松陰神社の境内にある瓦ぶき平家建て8畳・10畳半の2室の家です。


吉田松陰は安政3年(1857)から2年半の間、下級武士や庶民の子弟を教育しました。


高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新期に活躍した多くの人材がこの塾から輩出されています。

 

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松下村塾から車で5分ほどのところに高杉晋作や伊藤博文の家がありました。

伊藤博文は光市の生まれですが、9歳で萩の伊藤家に入家しています。


高杉晋作は萩で生まれていますから、現在も高杉晋作が生まれた家が残っていて、見学もできます。

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松下村塾へのアクセス

 

住所:〒758-0011 山口県萩市椿東松本市1537

 JR山陰本線東萩駅から徒歩で10分

 中国自動車道美祢東JCTから車で20分

 

→ 小郡萩道路絵堂ICから車で20分

(JCTと直結する小郡萩道路利用で萩市街地へ)

 

→ 松陰神社から徒歩で1分

 

松下村塾とは? 

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松下村塾は2015年7月に世界遺産登録決定しました。(明治日本の産業革命遺産)

 

松下村塾とは維新の先覚者・吉田松陰が主宰し門弟を教えた私塾です。

幕末の志士を数多く輩出したことで有名になりました。

 

松陰は、西洋の教育、科学、産業を取り入れた進歩的な国づくりを夢見ていて、塾生の多くは、師の志を受け継ぎ、日本が近代国家となるために力を尽くされました。

 

「松下村塾」はそもそも松陰の叔父で師でもあった玉木文之進が天保13年(1842)に松本村新道の自宅の一角に開いたものです。

その後いったん廃止(嘉永元年(1848))になり、さらにあと久保五郎左衛門が塾名を受け継ぎ(嘉永年間)、それから松陰が譲り受ける、というのがこの塾のおおまかな歴史です。

 

玉木 文之進(たまき ぶんのしん)は、幕末の長州藩士で教育者・山鹿流の兵学者。

松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、一般的に通称で文之進と呼ばれる。

藩士杉家に生まれ、11歳の文政3年(1820)叔父の玉木正路の跡をつぐ。文之進は通称。幼い吉田松陰の指導にあたる一方、27歳の天保7年(1836)以降、松陰の代理教授として藩校明倫館で山鹿流兵学を教授する。天保9年、御蔵元順番検使役となった。天保11年、部下が不始末を起こしたため非職となる。天保13年、自宅に松下村塾を創始し、子弟の教育にあたる。

出典:萩人物

 

久保五郎左衛門

(1804-61)萩藩士、名は久成、五郎右衛門とも称した、吉田松陰の外叔にあたる、隠居後、村童を集めて塾を開き、玉木文之進の松下村塾の名を継承した、さらに吉田松陰がその名称を継ぎ主宰した、文久元年没

出典:萩人物

 

松下村塾の塾生さんには、歴史が苦手な私でさえ知っているような方がたくさんおられます。

日本の近代化、工業化の過程で重要な役割を担った多くの逸材が松下村塾で学ばれたんですね。

 

街のあちこちに、銅像が立っています。

「あ、これ久坂玄瑞だって」「こっちは高杉晋作だ!」みたいな。

 

 

松下村塾から車で5分ほどのところに高杉晋作や伊藤博文の家がありました。

伊藤博文は光市の生まれですが、9歳で萩の伊藤家に入家しています。

 

高杉晋作は萩で生まれていますから、現在も高杉晋作が生まれた家が残っていて、見学もできます。

 

松下村塾の生徒(塾生・門下生)とは?

松下村塾の有名な門下生で四天王と呼ばれている方々です。

  1. 高杉晋作
  2. 久坂玄瑞
  3. 吉田稔麿
  4. 入江九一

高杉晋作(たかすぎ しんさく)

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1839年9月27日〜1867年5月17日(享年27歳)

 

長州藩士・高杉小忠太の息子として生まれ、13歳の時に明倫館に入学し、その流れで松下村塾に入門、松陰からの師事を受けた。

 藩として倒幕運動を掲げることに成功したが、大政奉還が行われる約半年前に持病の肺結核によって亡くなった。

 

久坂玄瑞(くさか げんずい)

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1840年1月5日〜1864年8月20日(享年25歳)

 

長州藩医・久坂良迪の息子。

家族全員を病で亡くし、15歳にして久坂家の当主となった。

松下村塾に入門。

吉田松陰は、高杉晋作と久坂玄瑞を「村塾の双璧」と称し、その才能を高く評価していた。

その後は高杉晋作らとともに尊王攘夷活動を行った。

 

薩摩・会津藩との戦いに発展(禁門の変)し、長州藩の敗北濃厚となる中で自刃した。

 

吉田稔麿(よしだ としまろ)

1841年3月16日〜1864年7月8日(享年24歳) 

長州藩の足軽・吉田清内の嫡子として生誕。

松下村塾で兵学を究め、吉田松陰からは高杉晋作、久坂玄瑞に並ぶ「三秀」と評価されていた。

 

尊王攘夷活動を行っていくが、1864年の池田屋事件にて討ち死に。

 

入江九一(いりえ くいち)

1837年5月9日〜1864年8月20日(享年28歳)

長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれる。

松下村塾に入門し、高杉・久坂・吉田らと並ぶ「松下村塾の四天王」として吉田松陰からその才能を高く評価されていた。

 

禁門の変(1864年)にて久坂らと共闘するも敗北し、自刃した。

 

明治新政府の立役者 伊藤博文(いとう ひろぶみ)

四天王以外にも、有名な方がいます。

私が子供の頃に使っていた100円札には、伊藤博文が載っていました。

だから、とても身近な人でした。

この方も、山口県の出身なんですね。

 

伊藤博文

1841年10月16日〜1909年10月26日(享年68歳)

 

周防国(現山口県)の百姓・林十蔵の長男として生まれる。家は貧しく、小さい頃に奉公に出されていた。13歳の時、父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となったのに伴い、武士の位となった。

1857年、江戸湾警備のため相模に派遣されていた際、来原良蔵と出会い、その縁で松下村塾に入門する。高杉・久坂らと親交を深め、以後、尊王攘夷活動を展開していく。

明治維新後は明治新政府の要職を兼任し、1885年には、日本の初代内閣総理大臣に就任した。その後4度に渡って内閣総理大臣を務め、日本の近代化政策を推進していく。

1906年に初代韓国統監に就任するも、その3年後、安重根によって暗殺される。

照元:【吉田松陰】松下村塾の著名な門下生

 

萩焼がステキでした!

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高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)の家は萩の街中にありました。

そこは現在も萩焼のお店がたくさん並んでいて、観光客がいっぱいです。

 

私も旅の目的のひとつである「萩焼」を買い求めました。

 

萩焼は淡い桃色のイメージがあったのですが、最近の窯元さんはいろいろなものに挑戦されています。

 

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今回買ったのは、ブルーのマグカップ。

 

萩焼とは思えない深い色。

一目ぼれして、購入です。

まとめ

日本が江戸から明治に変わる時、多くの人々の力で歴史が刻まれたんですね。

 

日本が近代国家になれたのは、松下村塾門下生のおかげでしょうか?

若くして生涯を終えられた方々に感謝の気持ちを抱きますね。

 

歴史が苦手で、ずっと興味がありませんでしたが、歴史好きの主人と旅行をして、たくさんの史実がわかりました。

歴史は意外とおもしろいことに、やっと気づくことができたんですよね。(笑)